法華寺について
由 緒
光明皇后創建の
総国分尼寺
法華寺の歴史は今から1300年ほど前、聖武天皇の后・光明皇后の発願によってはじまりました。父・藤原不比等の死後、皇后は子どものころから住み慣れた邸宅を皇后宮とされます。その後、皇后宮を宮寺に改められたのが法華寺です。
正式には法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)といい、総国分寺である東大寺に対し、総国分尼寺(にじ)として、女人成仏の根本道場としての役割を担いました。皇后は法華寺において尼僧の仏学研鑚を勧め、女人成仏の規範を示されました。また天皇崩御後は、天皇の菩提も祈られたのです。
伽藍の完成は延暦元年(782)頃、光明皇后が亡くなられた後でした。現在の南門南側に金堂が建つなど広大な寺地を有し、東西両塔、金堂、講堂、食堂(じきどう)など壮大な伽藍を誇りました。

伽藍の衰退と
復興を支えた人々
都が平安京に遷ると奈良は次第に廃れ、諸大寺と同様に法華寺も衰退し堂宇も荒れました。この復興がなされたのは鎌倉時代に入ってからです。まず初期には東大寺の重源(ちょうげん)が金堂などの修復を行いました。
次いで中期には西大寺の叡尊(えいそん)が金堂をはじめとする諸堂の再興を行い、多くの尼僧に戒を授け戒律復興と仏法興隆に尽力しました。しかし室町時代、兵火や地震などによって伽藍は再び焼失、崩壊します。
これを復興したのが豊臣氏でした。
秀頼公の母・淀殿が発願し、慶長6年(1601)から翌年にかけて、片桐且元(かつもと)を奉行に本堂、鐘楼、南門などが再建されます。今日の法華寺の伽藍はこのときに再興されたものです。


と呼ばれるお風呂
皇室とのゆかりと
歴代門跡
光明皇后ご創建の法華寺は皇室と深いゆかりを持ち、皇室や摂家の姫君が門跡(住職)を務められました。桃山時代に後水尾(ごみずのお)天皇の皇女・高慶尼(こうけいに)が入寺されてからは尼門跡寺院となり、今も瓦には菊の御紋があしらわれます。
先代の門跡・久我高照(こがこうしょう)尼は侯爵家のご出身で、大叔母には明治天皇の后・昭憲(しょうけん)皇后がおられました。昭和14年(1939)に15歳で入寺され、当初はあまり人前に出られることもなく、昭和の終わり頃までは御簾(みす)越しにお話しをされるなど、皇室文化が守られてきました。
今も折に触れ皇室の方々がおみえになり、門跡寺院ならではの誇りと品格が受け継がれています。

豊臣秀頼と母の淀殿が復興

設けない珍しい形式